For a Peaceful, Just, and Sustainable World Free of Nuclear Weapons, Military Bases and War Womens Peace Fund Contributes to Developing Cooperation and Solidarity between Women of Japan and Women All around the World
Military Families Speak Out, USA
第50回日本母親大会
被爆60年・核兵器廃絶 国際シンポジウム
-イラク派兵撤退、世界の平和運動と連帯し、
核も基地もない地球を
私は、アデル・クベインです。私は熟練した庭師であり、母であり、学生です。26年間、人々の庭の手入れをして生計を立てています。私の顧客は友人です。一番好きな友人のひとりに、ミチコという小柄な日本人女性がいます。ミチコは第2次大戦中、広島の近くに住んでいました。原爆が落とされたあと、彼女の家族は食べるものがなく、生きるために放射能の死の灰を浴びた草を食べざるを得ませんでした。ミチコは以来ずっとガンとたたかっています。最初に甲状腺ガンを患い、甲状腺を摘出、そのあと喉頭ガン、今は肺がんにかかっています。私はもう何年も、彼女の生きるためのたたかいを見守ってきました。私たちふたりには、共通点がたくさんあります。庭への愛情、子どもたちへの愛情、そして戦争が永遠に終わってほしいという願いです。ミチコは私に、これほど長い年月が経っていても、いまだに昔の戦争映画を見ると涙が出ると、言います。
ミチコやほかの知人たちを通じて、私は多くの戦争がもたらした痛みを知っています。ミチコが経験した戦争、多くの無実の人々を殺し私の友人たちに深い傷を残したベトナム戦争、そしてイラクに送られ戦闘に参加させられた私の娘の痛み。このことに突き動かされて、私は、自分なりのささやかなやり方でものごとを変えるために、活動しているのです。
1998年に、私のひとり娘はオレゴン国家警備隊に入隊しました。警備隊の主要な任務は、州の住民に奉仕し、災害に備えることです。契約書には、戦争が起こったときに彼女の部隊が召集されることがあっても、娘が戦闘に参加することはないと書いてありました。私はそのことがとても気にかかりましたが、娘は大学を終えるのにお金が必要だし、州の人々を助ける仕事がしたいのだと言いました。
娘は地元の大学で海洋生物学の勉強を続け、私自身も大学に通うようになりました。2001年9月11日の後、私は娘や、中東や、私たちの国の兵士たちがどうなるのだろうと恐れました。ベトナム戦争がもたらしたことを思い出したのです。
アメリカ国民が再び戦争へと煽りたてられていく様子に、私は声をあげました。大学や一般の新聞に投稿しました。多くの人は私をあざ笑い、アメリカ人らしくないと言いました。娘が直接巻き込まれることを知るずっと前から、私はイラクやアメリカの何千万もの人々の生死にかかわる事態になると認識していたのです。
ニュース記事で「声をあげる軍人家族の会」のことを読み、私はただちにチャーリー・リチャードソンとナンシー・レシン夫妻に手紙を書きました。ふたりは同じく兵士を子どもに持つジェフェリー・マッケンジーさんとともに「声をあげる軍人家族の会」を立ち上げた人です。私は参加したいと申し出ました。
ナンシーとチャーリーの息子ジョーは海兵隊員で、ちょうど私が自分の娘が危険にさらされることを知った頃、ふたりもまた、息子が誰かほかの人の戦争でたたかうために戦場に送られることになることを知ったのでした。2002年10月、ナンシーとチャーリーは平和デモでジェフェリー・マッケンジーと出会い、3人は、軍人の家族たちが意見表明できる場としての組織をつくろうと決めました。3人は軍人の家族として、私たちには特別の発言権がある、イラクへの侵略を止める力になるかもしれない発言をする権利があることに気がついたのです。
家族たちをつなぐ場として、チャーリーとナンシーはホームページ(www.mfso.org)を立ち上げました。はじめての記者会見のあと数日のうちに、会員は200人近くになりました。
イラク侵略までの数ヶ月間、「軍人家族の会」の会員たちは上下両院の議員に面会し、ジョージ・ブッシュや地元の新聞に手紙を書き、ろうそくをともしての追悼集会に参加し、地方や全国的な集会で発言し、大学や教会やコミュニティー・センター、労働組合の会議室などで開かれる学習会に参加しました。2003年2月15日のニューヨークの集会では、舞台の上から訴えました。記者会見も開きました。議会による宣戦布告なしのイラク侵略を阻止するために、15人の親たちが、ジョージ・ブッシュとドナルド・ラムズフェルドを相手どり訴訟を起こしました。当時私たちがしたこと、そして今も続けていることの中でもっとも重要なことのひとつは、兵士を応援する最善の方法は彼らを無謀で不幸な軍事行動に送り込まないことだと、人々に知らせる活動です。アメリカでは、兵士を支援するためには戦争を支持しなければならないと言う人があまりにも多くいます。「軍人家族の会」は、それとは別の方法を示したのです。兵士を応援しよう、今すぐ帰国させようと。
「軍人家族の会」ができて1年8ヶ月になります。今では1500を超える家族が参加し、毎日会員が増えています。会員の約30人がイラクで愛する家族を失っています。多くの会員は、愛する家族が派遣の任期が延長されたり、イラクで負傷したりしています。愛するひとが帰国した家族にとっても、それが安全や心の平静を意味するものではありません。帰国兵士の多くが心的外傷後ストレス症候群に苦しんでいます。劣化ウランにさらされたからです。これらのことは兵士やイラクの人々を今後何十年にもわたって危険にさらすでしょう。
「軍人家族の会」はまっさきに、兵士が直面している危険やイラクの市民に起こっていることを明らかにしました。メディアや人々に、装備や水や食料が不足していること、兵士の自殺や士気の問題について話しました。
「軍人家族の会」は、完全なボランティア組織で、専従の職員はいません。交通費などの経費は、非営利団体からの寄付でまかなっています。「軍人家族の会」は、家族どうしを結び、メディアともつながる手だてを提供しているだけでなく、家族を愛するものたちを助けることができる他の団体にもつないでいます。
「軍人家族の会」の会員は、カナダ、日本、フランス、イギリス、イタリア、スペイン、トルコ、オーストラリアに呼ばれて話をしています。私たちはこれからも、戦争を終わらせ、兵士たちを帰国させ、この不法で不当な不道徳な戦争を許してしまった政策を終わらせるまで、アメリカ国内はもちろん、世界中で声をあげ続けます。
ナンシーとチャーリーからみなさんへメッセージがあります。「私たちは、日本の人々、日本の兵士の家族とイラクに派遣されている大切な人々に、思いを馳せています。私たちは日本政府が派兵を決定しなければよかったのにと、心から残念に思います。私たちは日本政府に訴えます。今すぐ兵士たちを帰国させよと。」
私個人にとって、「軍人家族の会」は、話を聞きたいと思っているジャーナリストたちと結びつけてくれ、ひとりの力ではとてもおよばないほど多くの人々に声を届ける助けになりました。自分はひとりではないと知ることが、力になっています。
私は兵士の母親たちでつくる「母の会」にも所属しています。「母の会」には「軍人家族の会」の会員もいて、私たちはみな、子どもたちをほかのすべての兵士とともに帰国させるために活動しています。地元紙のインタビューを受けたり、記事を書いたりするほかに、もっとも重要なこととして、地域の人々と話し、イラク戦争について自分の子どもを通じて学んだことを理解してもらう活動をしています。
私は兵士たちが直面していることを、直接知ることができます。娘は機会があるたびに手紙、電話、電子メールをくれました。娘は10ヶ月間イラクのモスルに駐留し、負傷して帰国しました。
娘の部隊はイラクで学校や住宅を建設するのであり、解放者として歓迎されるのだと言われました。それどころか娘は、イラク北部で民間業者の車両を守るために、防弾服もなく、はじめは弾薬すらないまま、50口径の機関砲をまかされたのです。最初の数日間、彼女の部隊は最小限の弾薬と、1日1回の食事だけ、飲料水はほとんどありませんでした。娘は、劣化ウランのチリや死体でいっぱいの車の残骸に覆われた道路を通りました。ウランの「赤いチリ」を吸わないように言われましたが、防護の装備は何もありませんでした。
娘が2003年の4月半ばにイラクのモスルから送ってきた手紙の一部を読み上げます。
「親愛なるおかあさん。私は以前からもっている怒りや挫折を感じるほかに、別のものを見つけました。私が生きる中で感じる喜びをどう説明したらいいかしら。ひどいときでさえ、自分のまわりに美しいものを見つけます。このことに全力でしがみついているの」「私は目の前の状況、ここで起こっていることを変えることはできないかもしれないけど、自分を自分でいさせてくれるものを守ることはできる。私は変わってしまう、帰るときには別人になっているでしょう。でも私はこの生きることの喜びを絶対に手放さない。汚いものの中に美しさを見つける力を絶対に手放さない。自分の中に波打つ確信をうまく説明できないけど、私は私のまま戻るとわかっています。今の状況に自分を失わせることしません。」
母親というのは、恐れるものです。子どもの安全を心配し、何よりも子どもが取り返しのつかないことしてしまうのではないか、人生を変えてしまうようなことをしてずっと苦しみ続けることになりはしないかと、心配します。
私は、すべての生きるものを愛し、すべての人に敬意をもつようにと娘を育てました。娘はイラクの人々を、自分と同じ人間として見ていました。娘は自分がイラクで見たこと、したことに耐えられず、打ちのめされてしまいました。
電話で私に、自分の弾丸にうたれて息を引き取っていく若者の目を見たと泣きながら話したとき、娘は自分が一時的に人間性を失ったことに気づいたのです。私はいっしょに泣きました。私はもはや、自分の国に奉仕するという決定がもたらす長きにわたる影響から娘が逃れるすべはないと知りました。娘は一生その重荷を背負っていかねばなりません。
現在娘は、コロラドの基地で手術を待っています。夜、死ぬ夢を見ては叫び、起きます。もう2度と、からだも心も若者らしい、喜びにあふれた状態に戻ることはないでしょう。娘は私の最も親しい友人であり仲間です。娘の悲しみは私の悲しみです。
私たちはみな、兄弟姉妹です。私たちは、誰もが同じように感じ、同じように血を流すのだということに気づかねばなりません。私たち自身が未来なのだと、私は信じたい。私たちは声をあげ、ものごとを変え、より文化的な社会をつくる力があるのです。ここにみなさんとともにいることが、私に希望と、平和のために活動し続ける力を与えてくれます。
みなさんが平和をめざす活動に時間を割き、献身されていることに、感謝します。自分たちの周りの人々にだけつくして生きることは、簡単です。よりよい世界にするためにエネルギーを費やすことは、最大の贈り物です。自分の子どもだけでなく、すべての子どもたちのために世界をよくすることで、私たち自身がよりよい自分になれるからです。